先日のこと。学生時代、共に理学療法士を目指した友人から電話がかかってきた。なんでも入ってきたばかりの新人が「やり甲斐を見出せないから辞める」と言って退職願を出したという。それに対しどのように思うか?といった内容だった。
なぜ、「やり甲斐を見出せないのか?」と問うと理学療法介入により、劇的な回復を促せる時期の患者さんが施設に少なく、状態維持が主となるため、介入にやり甲斐を感じないらしい。
私たちリハビリテーション職が関わる患者さんには疾患発症後、もしくは受傷後の期間に応じた、介入時期の区分けみたいなものがある。それが急性期、亜急性期、回復期、生活期というものだ。相談を受けた友人の施設は生活期。著しく回復する時期ではない。また、脳卒中などを発症後、障害度が高く、家族支援に限界がある人が入院されているようだ。そんな方々への介入にやり甲斐がないという。
なんとも悲しい話だ。
TVなどで放送されるリハビリテーション特集は往々にして劇的な回復を特集したものが多い。「治りたい」「元に戻りたい」という意思は最も尊重されるものであり、そこに注目が集まるのは当然だ。実際、患者さんやその家族を中心に医師、リハビリテーション職などの各医療職が連携をとり、介入した結果、目覚ましい回復を遂げた映像は感動すら覚える。
しかし、専門職であるリハビリテーション職がその一面だけにとらわれすぎるのはどうかと思う。医療介護の現場はそんなにドラマティックではない部分が多いからだ。ところが劇的な回復に関わる事が最大のやりがいと感じている若いリハビリテーション職はとても多い。
人間には必ず"老い"と"死"というものが訪れる。古来、不老不死を追い求める権力者の話があるが、未だ実現不可能な永遠のテーマである。それ故、多くの人が”死”を恐れる。また、一方で"その時"が自分に訪れる時は、できるだけ苦しまずピンピンコロリと逝きたいものだと願う。
だが、現実はそう簡単にいかない。
多くの方が思わぬ障害を持ち、予後を過ごす。これは人生の終盤で起こる最後の試練と言ってもいい。そういった多くの方々に「劇的な回復がないからやり甲斐がない」なんてどうして言えよう。
生活期の介入。とくに療養型など寝たきりの方が多い施設では、患者さんに劇的な回復は見られないかもしれない。しかし、そこには必死に生きている”命”が"人間"がいるのである。
なにも介入しなければ、食事を自力でとれていた人が、介助が必要となり、胃瘻につながることもあるし、呼吸機能の低下によるむせ込み、誤嚥性肺炎などにも繋がることもある。また、関節の拘縮等はオムツ交換、清拭時等に多大な苦痛を与える可能性もある。逆に介入により、胃瘻や経管栄養から経口摂取に戻すこともできる場合もあるのだが、そういった介入を軽視している。
さらに言いにくい話であるが、最後の時を迎えた時に"綺麗な姿"で送り出したい気持ちがある。綺麗に横たわった姿ではなく、四肢、体幹が縮こまるように迎えた最後の姿であったらどうだろう?おくり人ではないが、死後も尊厳をもって送り出したいというのが多くの家族の気持ちであるし、関わる以上、私はそうありたいと思っている。
理学療法士とはリハビリテーション職である。リハビリテーションの概念である”全人間的復権” これに関わる事は、劇的な回復のみではない。もちろんそれを追求する事は当然の事だが、患者さんやその家族が求めている"人間としての尊厳"に対してどう介入できるか?も大切なのだ。
それを理解せず、回復の幅だけに己のやり甲斐を見出すことは、単なるエゴの押しつけや自己満足になること。また、リハビリテーションの概念を端的にしか捉えていないことを理解しなければならない。
なぜ、「やり甲斐を見出せないのか?」と問うと理学療法介入により、劇的な回復を促せる時期の患者さんが施設に少なく、状態維持が主となるため、介入にやり甲斐を感じないらしい。
私たちリハビリテーション職が関わる患者さんには疾患発症後、もしくは受傷後の期間に応じた、介入時期の区分けみたいなものがある。それが急性期、亜急性期、回復期、生活期というものだ。相談を受けた友人の施設は生活期。著しく回復する時期ではない。また、脳卒中などを発症後、障害度が高く、家族支援に限界がある人が入院されているようだ。そんな方々への介入にやり甲斐がないという。
なんとも悲しい話だ。
TVなどで放送されるリハビリテーション特集は往々にして劇的な回復を特集したものが多い。「治りたい」「元に戻りたい」という意思は最も尊重されるものであり、そこに注目が集まるのは当然だ。実際、患者さんやその家族を中心に医師、リハビリテーション職などの各医療職が連携をとり、介入した結果、目覚ましい回復を遂げた映像は感動すら覚える。
しかし、専門職であるリハビリテーション職がその一面だけにとらわれすぎるのはどうかと思う。医療介護の現場はそんなにドラマティックではない部分が多いからだ。ところが劇的な回復に関わる事が最大のやりがいと感じている若いリハビリテーション職はとても多い。
人間には必ず"老い"と"死"というものが訪れる。古来、不老不死を追い求める権力者の話があるが、未だ実現不可能な永遠のテーマである。それ故、多くの人が”死”を恐れる。また、一方で"その時"が自分に訪れる時は、できるだけ苦しまずピンピンコロリと逝きたいものだと願う。
だが、現実はそう簡単にいかない。
多くの方が思わぬ障害を持ち、予後を過ごす。これは人生の終盤で起こる最後の試練と言ってもいい。そういった多くの方々に「劇的な回復がないからやり甲斐がない」なんてどうして言えよう。
生活期の介入。とくに療養型など寝たきりの方が多い施設では、患者さんに劇的な回復は見られないかもしれない。しかし、そこには必死に生きている”命”が"人間"がいるのである。
なにも介入しなければ、食事を自力でとれていた人が、介助が必要となり、胃瘻につながることもあるし、呼吸機能の低下によるむせ込み、誤嚥性肺炎などにも繋がることもある。また、関節の拘縮等はオムツ交換、清拭時等に多大な苦痛を与える可能性もある。逆に介入により、胃瘻や経管栄養から経口摂取に戻すこともできる場合もあるのだが、そういった介入を軽視している。
さらに言いにくい話であるが、最後の時を迎えた時に"綺麗な姿"で送り出したい気持ちがある。綺麗に横たわった姿ではなく、四肢、体幹が縮こまるように迎えた最後の姿であったらどうだろう?おくり人ではないが、死後も尊厳をもって送り出したいというのが多くの家族の気持ちであるし、関わる以上、私はそうありたいと思っている。
理学療法士とはリハビリテーション職である。リハビリテーションの概念である”全人間的復権” これに関わる事は、劇的な回復のみではない。もちろんそれを追求する事は当然の事だが、患者さんやその家族が求めている"人間としての尊厳"に対してどう介入できるか?も大切なのだ。
それを理解せず、回復の幅だけに己のやり甲斐を見出すことは、単なるエゴの押しつけや自己満足になること。また、リハビリテーションの概念を端的にしか捉えていないことを理解しなければならない。
コメント
コメント一覧 (2)
一人でも多くの患者を少しでも良くしたいという思いから理学療法を目指したのでああればその新人の思いは至極当然のように思えます。
むしろ夢見る若者として良くいえば健全、悪く言えばあさはかであるがありがちなものかと。
ただ実際の問題点として、学ぶときに「そもそもリハビリテーションとは福祉と一体であり一生付き合っていくものである」という概念をかなり軽視しているように思えます。
それはその新人個人の思想ではなくむしろ教育レベルの問題かと。
この業界は新人の教育に対して熱心というか、現場にでも何かと学校や学生と関わる機会が多いです。
そこで垣間みれる教え方(バイザー含め)は「理学療法さえあれば何でも治る」という感覚、言わば理学療法万能説に酔っている様に思えます。
それが教育の場だけに留まらず現場にでもその感覚でいる人が多いのもまた事実かと。