医療法人で理学療法士として働く中で、実習生の指導をする機会は多い。机上の学問で得られないものを学び、考える機会。だからいろんな事を体験してもらい、疑問をたくさん提案し、たくさん考えてもらう。そして、行動してもらう。

体験や思考することが重要。それが学習の要。そして学習を提案する事が教育だと思っている。日頃からそう考えているから、このニュースには驚いた。<小学教科書検定>半袖で木登り NGで写真変更 以下、一部引用。

理科の教科書の表紙で木につかまりクワガタを捕ろうとする少年の写真が使われた。この写真に「作業の安全について適切な配慮がされていない」との検定意見が付いた。「半袖半ズボンでの木登りは危険で、長袖長ズボンが望ましい」とのこと。

さらには、フライパンから10センチほどの距離に手がある少女の写真に「危ない」との意見が付き、机の下に手を引っ込めた構図に差し替えられた。という事例や、柵なしの屋上から周囲を観察する学習のイラストに「安全面での必要な配慮を欠いている」と意見が付いたという。

後述された内容では、「野外観察などで何が危険か、体験的に分からない教師が増えている。誤った記載があっても『教科書に載っているから大丈夫』とうのみにする危険性が高く、ここまで細かい配慮があって当然だと思う」とおっしゃる某校長先生の言葉がある。


いつも、いろんな形で【思考力低下】の危険性を提案しているのだが、今回の件は、教員が教科書に全般的に頼る教育とは何なんだろう?と感じざるを得ない。

教科書通りに指導するなら、教員免許なんかいらないだろう。教員が教材を元に疑問を提案し、考えさせ答えに導いていくことこそ教育ではないだろうか?問題提起をせずに、「これはダメ!」「これはいい!」「この通りにする!」そんなものは教育じゃない。エゴの押しつけだ。

今回の件で言うと、「危ないかもしれない」と、大人が考え、リスクを排除したいのはよくわかる。でも、それは大人だけの判断で排除すべきものではない。そのリスクを子供たちに考えさせるのが教育ではないのか?教科書は教育する側が頼るものではない。子供たちが思考し、理解へとつなぐものだ。

考えさせる機会を奪っていくと、表面だけでしか物事を捉えられなくなる。よく警察24時などのTVドキュメントで出てくる女子高生の売春など典型的な例だ。彼女たちが売春する目的は「お金がほしい」この一点だ。売春相手に関しては、「お金をくれる人」とだけしか思っていない。初めて会う人がほとんどなのに警戒心がない。

そこには、「行為をすればお金をくれるのが当たり前」という表面的思考しかない。約束が反故され、暴力や暴行、恐喝、詐欺などにあう可能性があることを理解していない。挙句の果てに警察に保護されれば「親には連絡しないで!」と大半の少女が口にする。この理由も「怒られるから」がほとんど。なんで怒られるのか(叱られるのか)?が全然わかっていない。そこにある中身を理解していない。その思考じゃ怒られなきゃ売春してもいいってことになる。

先ほども述べたが、大人が危険と思われる事を子供の為に排除したくなるのは当然だろう。でも、私たち大人は子供たちをいつまでも安全な方向に導くことはできない。親は老いていき、子供たちもいずれは大人になり、次の世代を育てていくのである。彼らには彼らの人生があり、己の力で社会の中で生きていかねばならないのだ。

そういった意味では、教育における過度な排除や配慮は社会適応において、警戒感や危機感を失わせる可能性がある。もっと疑問を抱かせること。もっと気付かせること。もっと考えさせること。それらを創出してこそ、教育なのではないかと改めて私は思う。、