ちょっと食べるという事について考えたい。
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和歌山県太地町のイルカ漁をケネディ駐日米大使が批判したという話。さらにはファミリーマートのフォアグラ入り弁当が中止になったという話。これが、そう考えたきっかけだ。

クジラも含めての話だが、これらの訴えを起こす人の気持ちの中心にあるのは人間が特化して持っている思考概念【かわいそう】というものが根本にあると感じる。思考や理性に特化していなければ生まれてこない概念。動物の世界は弱肉強食。弱ければ生きることはできない。でも、人間社会はそうじゃない。障害があっても、高齢になっても生存を脅かすような他者に襲われる事はほとんどない。道徳心が成熟している先進国ではなおのことだ。

弱者を助けるやさしい社会。これは人間社会でとても大切な事。

しかし、この人間社会の概念を生命をつなぐ自然の流れにまで持ち込むのはどうなのか?

そもそも食べるという事とは?  

ここでいう食べるというのは肉食、菜食関係はない。【命をいただき命をつなぐ】と言う意味を考えてほしいという事だ。日本ではご飯の前に【いただきます】という。キリスト教やイスラム教などの多くの宗教は神様へ自分に食物を与えてくれた事を感謝しいただく。根本は一緒。生きる為に命を与えて頂き感謝します。ということだ。

肉食でなければ大丈夫なんてことはない。菜食にしても植物が生きて命の活動をしているから、成長し収穫があるのである。ベジタリアンだからやさしい人間なんて言うのはただの自己満足でしかない。生きとし生けるものは全てが食物連鎖の中にいるのである。大切なのは食べれることに感謝する事。食事を残さない事なのだと思う。

身近で起きているわけがわからないこと  

焼き肉が大好きだという人は多い。でも、他国ではヘビを食べる文化があるとか、犬を食べるという話が出ると批判的意見を述べる人も多い。牛や豚や鶏は良くて、ヘビや犬はだめだという。何故かと問えば、「あれは食べ物じゃない!」「気持ち悪い!」「かわいそう!」と言う。そして、笑顔で牛や豚、鶏を主体とした焼き肉を頬張る。

ばかばかしい。見事な本末転倒ぶりである。

自分が育った生活の中に食習慣がないものだったり、愛玩動物だから食べるという概念が個人的にないというだけである。仮に小さいころからペットとして豚を育てていたら、豚を食べようとも思わないだろう。私は今回起きた二件のニュースの核心がココにあると思う。

結局は人間のエゴ  

私たちが今、生きて存在しているという事は生存競争に打ち勝ったご先祖たちがいたからである。そのご先祖様たちは生きる為に必死だっただろう。歴史上の戦乱や大飢饉、大災害を生き延び、私たちに繋がっているのである。おそらく綺麗ごとでは生きられなかった場面も多々あったと思う。そのおかげで私たちは生きている。

時は移り、先進国は飽食の時代。わざわざ○○を食べなくてもいいのでは?という時代になった。でも、それは個人の主観にすぎない。宗教などの概念を除き、生きるという根本を考えれば、○○は食べても良いが、○○はダメ!なんていうのは、個人のエゴでしかない。生きるという事は命をいただく「業」を背負うものである。それを否定するのであれば、生きる事を否定するという事である。

余談だが、ヒンドゥー教は牛を神聖なものとして定めているが、異教徒が食することには干渉しない。「牛を食べるな!」「神聖な生き物だ!」これを世界に訴えかける運動が仮に起きれば、世界各国の牧場主など生きた心地がしないだろう。

そこには宗教間でも暗黙の中に存在している他者理解や他文化理解がある。

人間は神にはなれない。人間自身が食べるもの食べないものの個人的エゴを全体主義に照らし合わせる事は、自然の摂理に逆らった分を弁えぬ過ちだと私は思う。